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宗教とスピリチュアル(ニューエイジ)

クリティカル・シンキングを求めて Vol.2

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三沢健直 松本市
day
2010-05-20
 

ヒーリングについて

 小倉牧師の仰るように、「幸福の断念」と、言うのはたやすい。実際に「感謝できないことを感謝」し、心の平安を得るためには、様々な苦しみ、希望、思い出、打算、快楽、名誉、などのすべて、すなわちMindとBodyの次元を超える必要がある。人にそれを超えさせる力は「祈りの中で、向こうから来る」。それがSpiritと呼ばれている。

 スピリチュアル(ニューエイジ)では、ヒーリング(癒し)という言葉が頻出するが、実はヒーリングは、キリスト教の伝道師の使命でもある。しかし、キリスト教のヒーリングは、かなり様相が異なる。

 小倉牧師が若い頃、田舎に派遣されたとき、年老いた信者が、「病気を治すために祈って欲しい」と言ってきたそうだ。小倉牧師は、自分が祈ることで病気が治るなどとは、まったく信じていなかったが、「その信者は、牧師の祈りは必ず神様に聴かれる、と信じているので、仕方ない」と、祈ってみた。すると、病気が治って感謝されたという。

 さらに次の逸話を教えてくれた。かつてドイツにブルームハルムという牧師がいて、その人が祈ると病人が治ってしまう。そのために教会に多くの病人が集まりだした。しかしブルームハルムは、利己的な動機で人々が集まりだしたことに疑問を感じ、病人を治すのをやめてしまった。そのときブルームハルム牧師は次のように言った。

「生の人間を殺す。根本的に生きるために死になさい。」

 恐らく、ブルームハルムは、病人が自らの死という不条理に直面し、これを肯定し、神に感謝することを「根本的に生きる」と表現したのだろう。それによってしか、心の平安を得ることができず、根本的に癒されることはないと。

 「生きるために死ぬ」を、文字通り理解するとカルト的になるが、「死によって苦しみから解放される」ではなく、「死を受け入れることで、苦しみから解放される」と理解すれば仏教とも通じるものだ。

 このような言い回しは、禅の「公案」にも似ている。公案の問いも大抵は論理的に矛盾した文章で構成されており、その回答はメタレベルに達することでしか得られない。臨済宗の幻侑宗久和尚によると、禅による悟りには、二種類あって、一方は只管打座(瞑想)を通じて得られるもの。一方はこの公案に集中することを通じて至るもので、カソリックの神秘的合一に近いと言っている(禅的生活/幻侑宗久著 ちくま新書)。

 生への執着、様々な欲望や苦しみなどの「この世」を「超える」瞬間が、Spiritと出会う瞬間と考えられているのだ。

キリスト教の非合理

 しかし、キリスト教のSpiritは、必ずしも死に直面して、それを受け入れたり、幸福を断念するときにのみ現れるのではない。日常的な生活においても現れるものだ。

三沢:「キリスト教にも非合理的な面があると思うのですが、合理性とどのように折り合いを付けているのでしょうか?」

小倉:「人間は、頭からつま先まで合理性に貫かれています。人間が合理性を追求するのは前提です。しかし、人間の合理性を超えたものがある。それが神です。『キリストからの問いかけ』、これが肝です。これを信じることは合理性を超える。森有正が『内面の強制』と言うように、不合理なものに抗うことができない。

 体制化というのも人間の合理性の一つの形でしょう。キリスト教も体制化してきます。それを批判して、16世紀にはプロテスタントがでてくる。17世紀には、それを批判してピエティスムス(敬虔主義)が出てくる。人間のやることだから。それから逃れることが必要になります。

 聖書には非合理な話がたくさん出てきます。アブラハムは啓示を受けて旅に出ます。これは合理的な判断ではないですね。非合理に従って家を捨てる。旅をしながら、人間らしく生きて、死ぬ。非合理性が人間を高めたということです。
 また、戒めにも合理性はない。姦淫するなかれ。これは、不合理かもしれない。

 また創世記には、ロトという人が出てくる。ある日ロトの家に天使が訪ねてくる。その町のルールでは、外から訪れた者は犯しても良いことになっているので、近隣の男達が天使を差し出すよう、ロトに求める。ロトは天使を差し出す代わりに娘達を差し出してしまう。まったく、不合理なことです。アブラハムは、王に妻を差し出してしまうし、孫のヤコブは父と兄を騙して家督を簒奪したにも拘らず、神はヤコブを選んでしまう。これも不合理な話です。

 何故なんだろう?と疑問を持つことが大切です。聖書を読むことは、聖書と対話することなのです。現代だったらどうだろう?自分なら、どうするだろう、と。一生の付き合いですが、興味が尽きない。こちらは数十年の歴史だが、向こうは数千年の歴史があるのだから、一生かかっても付き合えます。

 信じるとは、超越的なものに負けた、ということです。正しい非合理には普遍性があるはずだと思います。今までの自分が砕かれたからこそ普遍性がある。」

 つまり、キリスト教における非合理は、自らの甲殻と化した思考や価値観の体系、すなわち自らの小さな合理性を打ち破り、それを超え、新たな普遍性を得るものとして現れる。それはときに、体制の批判として現れることもある。

 聖書は、確かに不条理な話で満ちている。信徒は、それらの挿話の意味を考え、登場人物の気持ちを想像し、自らの姿に照らして考えることを通して、自らの範としたり、人生の方向性を定めたり、時には体制を批判する根拠とする。それが、聖書との対話と言われるものである。

 最後に進化論を否定する派について質問したところ、「進化論の持つ劣性排除の思想への違和感があるのだろう」とのことだった。進化論の否定は確かに非合理だ。しかしユダヤ人の虐殺を行ったヒトラーの思想は、社会的な劣性排除という「合理性」に貫かれていた。しかも体制化したキリスト教はヒトラーを支援した。

 「合理性を追求する人間の内面に、自己中心や自己正当化の意識が働いて、正しい判断や理解が妨げられる場合があることを念頭に置く必要があると思います」と小倉牧師は言う。ここでは「非合理」が、人間の狭量な合理性に対する批判的思考(Critical Thinking)に通じるものと理解されているのだ。

スピリチュアルの非合理性

 宗教における非合理性は、人間に偏狭な合理性を打ち砕いて、新たな普遍性に人を導くものとして現れる。ときにはメタレベルに向かうことで、人間の力では解決できない問題に直面した人に平安を与える。

 ところが、スピリチュアルの非合理は、合理性に対してメタレベルに向う動きが存在しない。あくまで現レベルにおいて問題を解消しようとし、「新しい合理性」であると主張する。まさにYMCAの三角形の頂点である、Spirit(霊性)が存在しないのがスピリチュアル(ニューエイジ)なのである。しかも、自らを打ち破るSpiritが存在しない代わりに、自らがスピリチュアルと同一化する。

 通常の宗教の非合理がメタレベルに向う動きとして現れるために、合理性のレベルで語られる科学と矛盾しないのに対し、新たな合理性であることを主張するスピリチュアルは、科学と真っ向から矛盾することになる。
 さらに、死や苦しみなど、人間の力では解決できない問題に対してスピリチュアル(ニューエイジ)は無力であり、あくまで解決しようとすれば、オカルトに転じざるを得ない。

 もちろん、スピリチュアル(ニューエイジ)が生まれた背景には、既存宗教が、現代社会の人々に特有の不安や痛みを解消できなかったこともあるのだろう。また宗教も、スピリチュアルと同種の非合理性を介して、多くの人々の間に信仰を広めてきた面もある。カルト的な宗教も存在する。一方で、葬式仏教と揶揄されるように、宗教の体制化も極端に進んでいる。宗教の側も、考えるべきことは多いはずだ。

 今回は、「あの世」との付き合い方の一例として、宗教について、特にキリスト教について、最近流行のスピリチュアルとの比較を通して考えてみた。スピリチュアル(ニューエイジ)の、ニセ科学に結びつき易い傾向には注意が必要だが、ニューエイジの影響を受けた心身の健康法のすべてが、ニセ科学による説明を必要とする訳ではない。ニセ科学的な言葉を取り除いても、心理学的な知見に基づいた心身健康法としても機能するものは少なくないはずだ。

 それにしても、今流行しているスピリチュアルという言葉は、まるで人間の全能性を意味するようで、神聖なものへの畏れを欠いているように見える。物質文明を批判しながら、Spiritを物質化させようとする点で、物質文明の最新形のように、私には感じられる。


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「考える力」、そして「生きる力」を育成するには/アメリカのリーディング教育
クリティカル・シンキングを求めて Vol.1

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