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なぜ障害者のプロレスを見に行く気になったのだろう。試合後に感じた虚脱と充実の交じりあうような気持ちは、予想していた感動とは異質のものだった。不気味なイメージ、日常世界との不親和を想像していた。異質性を際立たせることで日常の虚構を暴くような、おどろおどろしいものではないかと。あるいは、まったく反対に、目を熱くするような激しい感動かもしれないとも思っていた。しかし、そのいずれでもなかった。
リングとスポットライトという装置が、レスラーたちと我々観客の間に明確に境界線を引いていたことは明らかだった。我々はその境界線のおかげで、自らの日常性を危険に晒さずに、外側から障害者プロレスを見ることができた。スポットライトに照らされた彼らの身体の動きは、ある種の舞踏と類似していた。
リングアナウンスの役割も大きい。TVでやるプロレスの実況中継のような男女のアナウンサーが解説者と滑稽なやり取りをしていて、それが場内に放送されていた。障害者を馬鹿にして笑う口調は差別的と思えるようなものだった。しかし、我々の日常は差別を排除することによって、実は自分たちの差別意識と障害者自身を隠蔽しているだけだ。場内は笑いに満ち、しかしまるで差別を感じなかった。と言っても彼らは非常に周到に、差別語を使用することを避けていた。
あの実況アナウンスがなかったら、場内はより緊張感に溢れていただろう。事実、最後の試合はアナウンスなしで行われ、健常者レスラーであるアンチテーゼ北島の蹴りが障害者のサンボ慎太郎を厳しく叩く音が、この試合になって初めて場内に聞こえるようになった。
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最初からこの音が聞こえていたら、場内の雰囲気はまったく異なっていたはずだ。観客はより厳しい集中を迫られ、見終わった後の充実感はむしろ激しい疲労に近いものになるのではないか。私は今回が初めての観戦だったのだが、おそらく14年間のドッグレッグスの試みの中で、観客に与える適当な疲労感の程度が計算され、その回答があの滑稽なアナウンスなのだろうと想像した。しかし初めて試合を見た私は、最後の試合のような緊迫感を、もっと感じたいと思った。
数時間に渡って全身体の力を敵にぶつける障害者の姿を凝視させること。それによって見る人々の世界を構成するイメージに、戦う障害者の姿が入り込んでいくことがおそらく重要なのであり、過剰な緊張感や疲労感は不要なのだろう。間違いなく、戦う障害者の姿は私の世界を構成するイメージの一部となった。しかも予想しなかったことだが、それは美しくさえあるのだ。そのイメージは、観念としては「力」だろう。空気に縛られて、捩り上げられた彼らの身体は、神に挑戦された身体と呼ばれることがある。一つの身体の中に、最も強いものとの最も厳しい戦いが現存する。最も強いものに縛り上げられた身体が、あらゆる筋肉と筋とを収縮し、全ての細胞から汗を滴らせる。彼らはその戦いのあらゆる瞬間に全力で自らを肯定しているように見える。
最後の試合も印象的だった。頭を剃った健常者北島の蹴りは慎太郎の顔面を的確に捉え、その度に大きな音が場内に響き、慎太郎はよろめいて腰を屈め、そこをさらに北島の蹴りが襲う。慎太郎はしきりに北島の足元を目指してタックルに行こうとするのだが、北島の蹴りが的確にその出鼻を捉え、さらに大きな音がした。北島は障害者の慎太郎を殆ど一方的に蹴り続け、慎太郎にも低いタックルから北島を倒して腕を十字に決めに行ったチャンスがあったのだが、チャンスらしいものはそれだけだった。慎太郎は何度もリングに崩れ落ち、よろけながらその度に立ち上がった。
試合が終了し、感動的な音楽が流れて、敗北してリングを去る慎太郎へ不屈の精神を賞賛する満場の拍手が送られる時、北島の怒声が聞こえた。
「ぜんぜんだめじゃねぇか!」「この二年間何やってたんだ?」
敗北した慎太郎を罵倒する北島の声は観衆を一瞬で凍りつかせ、我々が作り出していた気持ちよい感動の世界を完全に遮断した。北島は続いて、二人の健常者レスラーに真剣勝負を申し込む。「真剣勝負」と北島は言った。北島が名指したレスラーたちは、真剣ではなかったのか?
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確かにジュニアは試合中、ふざけた仕草で観客を笑わせていた。とは言え彼の対戦相手で下肢の萎えきった高橋と山本は、ベンチプレス160キロを持ち上げる強靭な上半身と太い腕を持っていて、一歩間違えば顔面を砕かれる危険はあった。ジュニアは、殴りかかる高橋の攻撃を嘲笑うかのように楽にかわして張り手を続け、高橋の顔を怒りに紅潮させた。それが真剣でないのか?しかし、恐らく高橋はこの屈辱をばねに、次の戦いへ臨むだろう。膝を縛って戦うジュニアは、彼らのパンチを巧みにかわし、最後はヘッドロックで山本をギブアップさせた。ジュニアは「真剣に」勝負に拘ったと言える。
それよりも、山本には、ジュニアの顔を本気で潰すチャンスがあったはずであり、それを恐れたのは、むしろ山本の方ではないか。あの試合で「勝負」の意味で真剣さを欠いたのはむしろ山本のように見えた。
では北島の言う真剣勝負とは何か?試合後、日に日に強まる或るイメージとともに、ぼんやりとその回答が見える気がする。北島が批判したレスラーたちは試合中、まるで美しくなかった。彼らの中には、神との戦いどころか、自分との戦いさえなかったように見える。日に日に強まるそのイメージとは、会場を出るときにすれ違ったラマンの笑顔である。強度の障害を持つ彼の身体から発生し得る、あらゆる強度の、あらゆる方向への力を放出し尽くした後の、その平穏で豊かで、くしゃくしゃと潰れたような笑顔が私の中に住み始めている。
<続> 障害者プロレス観戦記
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