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今となっては、養護学校に高等部があるのも当たり前の社会になっているが、それでもまだ私には疑問に感じることがある。
普通の子でさえ18そこそこで、社会に出て働くことはかなりきついことかと思うのに、身辺自立も危ういような重度の障害児が同じように社会へ出て行くというのはどうなのだろう?
しかも同じ18歳であるのに、かたや青春を楽しむ術を知っている者と、障害があるゆえに友だちと遊んだり趣味を楽しんだりすることさえままならず、ただ自立、自立と促されるような青春時代を送る以外にない者とがいるというのは納得できない。
そういう親の思いに応えるべくして作られたのが、高等部終了後に2年の専攻科を設け、さらに2年の研修科が設置された私立若葉養護学校であった。生活面の自立を学んだり作業の実習をしながら、本人のペースで相応しい進路をゆっくり見つけていくという意図のもとに設けられた課程である。
 ―学校設立の認可が正式におりるまで8年もの年月がかかったという。学校法人立ち上げまでのご苦労はどんなものだったのだろう?
祖父の意思を継ぎ大出校長がまず取り組んだのは、無認可の養護教育塾「杜の子ファーム」の立ち上げであった。中卒後の子どもたちの親元を離れての生活訓練の場として昭和61年に開設されたのだが、それこそ山中の土地で生徒と先生方自らの手でチェンソーを持ち、木を切り出す開墾からのスタートだったという。
大出校長は、当時若干25歳の若さである。今も校長のよきパートナーとして子どもたちの母的な存在である由美子夫人とともに、若い夫婦は赤ん坊のミルク代も事欠くような暮らしの中、生徒たちと生活をともにしながら、学校法人の認可を目指して実績を作っていった。
大変な事業に乗り出すのに普通に務めに出ていたのでは身動きが取れないというわけで、収入を得るために校長は時にコンビニのアルバイトもやり、クリーニング店の外回りの営業もやりという、夜も日もなく働きづめの日々だったという。
そこまでの想いと注いだ情熱がやっと報われ、8年後の平成6年に悲願の設置認可がおり「学校法人大出学園・若葉養護学校」が開校する。
本科3年に加え、それぞれ2年の専攻科、研修科という長いスパンで教育するという意味の中に、生徒たちが社会に出ていくにあたっての、基本的な身辺自立の指導や職業教育を十分に行うことが出来るということがある。だが、校長はそれ以上に心を砕いていることがあるという。
 「これはどんな人にとっても同じなのですが、学校を卒業してからの人生の方が圧倒的に長い。学校生活は二度と来ないものですから、生徒たちが将来社会に出ていったときに、学校時代の楽しかった思い出や大切な思い出が心の支えとなるように、ひとつひとつの経験を大事にしてあげたいのです。きっとそれが生徒たちの『生き抜く力』になると思うからです」
学校でやっている放課後活動という、余暇活動に任意で参加できるようになっているのであるが、その中の「和太鼓活動」をやっている生徒の発表を見せてもらったことがある。まだ演目のレパートリーはそうたくさんないらしいけれど、みんなそれはそれは真剣な顔で、しかも高度な技術で素晴らしい演技を見せてくれて、父母や近隣の皆さんの喝采を浴びていた。
指導に当たっておられる先生も、とてもいきいきとして見えたし、生徒たちも輝いていたのがとても印象的だった。こうやって自分の楽しみを見つけ、自信をつけて、自分の生きる糧にしていってくれたら素晴らしいことだとつくづく思った。
近年の学校教育の現場でも「生きる力をつける教育」ということが叫ばれて久しいけれど、それは知恵とか知識はもとより、自分が周囲に十分に愛情を持って見守られてきたという実感を味わうことも大事な要素のひとつであろう。やはり障害児教育は教育というものの原点なのである。(つづく)
誰もが自分らしく生きるために 第七話 ~若葉養護学校レポート その3 ~
誰もが自分らしく生きるために 第五話 ~若葉養護学校レポート その1 ~
誰もが自分らしく生きるために 第四話
誰もが自分らしく生きるために 第三話
誰もが自分らしく生きるために 第二話
誰もが自分らしく生きるために 第一話 ~息子はバリバリの自閉症です ~
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