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フリー・ビルマ vol.2 -メソートの学校-

"Yaung Chi Oo school"

leader from from
菊池美菜
day
2005-01-12
 

バンコクからメソートへ

 西タイ、ビルマと国境を接する町、メソートにあるYaung Chi Oo(ヤン・チ・ウゥ) schoolには、毎日150名から180名の移民の子どもたちが通ってくる。2004年4月から9月まで私は、この学校に通ってくる子どもたちに地理や図工を中心に教えた。ここでの活動を報告する前に、Yaung Chi Oo schoolで活動をするに至った経緯を記し、この場をお借りして私の活動を支えてくれた仲間たちに感謝の意を表したい。

 2003年10月私は、大学を一年間休学してタイ国へ渡った。神奈川県の青年国際活動支援事業でタイのエイズ孤児院で活動する機会を得たからである。バンコクYMCAのプロジェクトの一つであるエイズ孤児ケアセンター"ハッピーホーム"に派遣され、そこで約半年間住み込みでエイズ孤児とともに生活、日常生活における支援とアクティビティを企画する活動を行った(詳しい活動内容は神奈川県のホームページに報告しています)。

 ハッピーホームでの活動をはじめて数ヶ月がたった頃、ホームから外出することもほとんどない私は、エイズ孤児がタイ国で生きていく難しさや取り巻く社会環境、問題点が見えず、根本的な社会問題であるエイズを身近に感じて活動ができないでいた。またホームで暮らすスタッフ間の問題が見えてきたこともあり、以前ハッピーホームで共に働いていたが、その後辞めてしまったノイという女性に相談するようになった。

 彼女は、ホームで一緒に生活をしていた頃から仲良くしていた方で、私がタイにいた約一年間大変お世話になった。ピー・ノイ("ピー"は年上の人につける"~さん"に当たるタイ語である。本稿ではタイでの呼び方をそのまま使用する)は、彼女のお姉さん(ピー・エー)が生活をするメソートという町に行ってみてはどうか、と提案してくれた。

 西タイに位置し、ビルマと国境を接しているメソートには多くの出稼ぎ労働者たちが毎日やってくる。一日に800人とも1000とも言われている。ピー・ノイは、私が興味を持つ町であるはず、と自信満々に話した。

+++



 早速、休みを取った私は、就職活動中のピー・ノイと、バンコクのモチットという北バスターミナルで落ち合った。ピー・ノイは、バンコクの激しい渋滞に巻き込まれ、30分以上も遅刻してきたが、小さな体で私を抱きしめ、再会を喜んでくれた。よく食べ、よく笑い、よく怒る、しっかりもののピー・ノイと私は夜行バスに乗ってメソートへと出発した。初めての町、そしてもしかしたら活動する場所が見つかるかもしれないという期待で胸が躍り、あまり眠ることができなかった。

 翌朝、ピー・エーのご主人であるゴー・ミャトゥ("ゴー"とは、年上の男性の名前の前につける"~さん"に当たるビルマ語である)がメソートのバスターミナルへ迎えに来てくれた。私たちは、彼が運転するバイクに3人乗りをしてピー・エーの待つ家へ向かった。明け方のために、人はほとんどいなかった。「2階建て以上の建物はこの町にはないんだ」、それが最初の印象だった。

 ゴー・ミャトゥは、ビルマ人であり、政治的な理由からタイ側へ国境を越えた一人である。彼は、タイ人であるピー・エーと結婚し女の子が産まれ、現在3人家族である。

 彼は、私にYaung Chi Oo schoolの校長先生を紹介してくれた。私と、校長先生は、英語が堪能であるゴー・ミャトゥの通訳で会話をすることができた。これがYaung Chi Oo school との出会いであった。

 校長先生であるゴー・ミンアオとゴー・ミャトゥ、ピー・ノイと私は、小学校を見学に行った。休み中であったために子どもはいなかったが、学校は、地面から1メートルくらいは、石で積まれ、その上は竹で組まれているといった感じだった。この学校というかひとつの部屋が5学年分の教室であると説明された。

 学校の隣にあるトイレには、これから水をひくという。周りは、トタンで作られた家々が隣接し、常に赤ん坊の泣き声が教室に聞こえてくるような状況であった。

 "ここで活動をしたい"セア・ミンアオ(校長先生)にそう伝えた。すると、いつからでもいい。メソートに引っ越してきたら、すぐに活動を始めるようにと言われた。翌日バンコクへ戻り、残していた仕事を片付け、翌週にはメソートへ戻った。そしてYaung Chi Oo school での活動を開始した。はじめは、日本語の簡単な挨拶を教え、あとは工作や地理、歌などを教えた。

 子どもは約180人、しかし毎日全員が通ってくるわけではない。妹や弟が生まれ世話をするために学校を休んだり、辞めたり、両親から働くように言われたりすることが多い。また、学校の周りに住んでいる小さな子供たちでさえ、兄弟の面倒をみるために、教室には参加せず、窓と呼べるような柵の外から、弟を抱いて、私の授業を見ている子供たちがいた。

 両親が十分な教育を受けていないために、子どもたちが学校へ行くことの大切さが理解されていない。突然ビルマへ帰ってしまったり、昨日国境を越えてきた、という新しい顔が何人もいることがある。このような状況でどのように授業を展開したらいいのだろう、と試行錯誤の日々が続いた。

  先生の人数も足りない、文具、教材も揃っていない、言葉もあまり通じない、通訳、アドバイスや活動に関する指摘などしてくれる人は、そこにはいなかった。全て自分で考え、実行し、結果を校長先生へ報告しなければならない。新しいチャレンジであり、それを子どもたちと共有できることが、嬉しかった。


フリー・ビルマ vol.4 "カレン・キャンプ"
フリー・ビルマ vol.3 "メソート再訪"
フリー・ビルマ vol.1 "メソート"

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