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カレン人として生きる困難
人口約5000万人のビルマ。人口の2/3はビルマ族で1/3が少数民族である。カレン人は人口約400万人の少数民族であり、多くがキリスト教徒である。カレン人が多く住む山岳地帯、タイ国境に近い辺境地域では、様々な人権侵害の実態がアムネスティー・インターナショナルや国連人権委員会によって報告されている。
本稿では、あるカレン女性のこれまでの困難の一部を読者と共有したいと思う。現在日本に住むカレン人女性から直接聞いた彼女自身の生きてきた道である。なお、現在難民認定申請中のため仮名とする。
1966年、カレン人(族)のNAW(ノウ)さんは、首都ヤンゴンでカレン人の両親の間に生まれた。6人兄弟の5番目、長女である。NAWさんのお父さんはイギリス植民地時代・日本植民地時代は軍人として、そして独立後は油を作る工場のマネージャーとして働いていた。お母さんは高校の英語の教師であった。
NAWさんは初等教育・中等教育を受けたが、そこでビルマ人優位の教育が行われていたことに起因する摩擦が原因で、小学校を3度変えた。高校を卒業したNAWさんは、政府機関で就職を探したが、カレン人でキリスト教徒であるということを理由に政府機関での就職はできなかった。その後、彼女は知人の紹介でUNDP(United Nations Development Programme 国連開発計画)の農業分野で働くドイツ人のポースマンディエー氏に出会い、UNDPが運営する農園で働く機会を得た。何度も面接を受け時間を要したが、結局1987年からUNDP農園で働き始めることができた。
その年の9月5日、ビルマ軍事政府は突然3種の高額紙幣の廃止を発表した。これに講義する学生運動が高まったのはこの頃からである。1988年3月、ビルマは民主化闘争の頂点を迎えた。きっかけはラングーン工科大学の学生と地元有力者の息子との喫茶店における実に些細な喧嘩であったという。
ところが喧嘩をきいて駆けつけた警官が喧嘩両成敗とせず、学生を一方的に悪者としたために争いが生じ、その過程で工科大学の大学生一人を射殺した。これに怒った学生たちはデモを組織、それはラングーン大学にも飛び火したが、両大学の学生は治安警察の徹底した弾圧を受けた。8月8日、首都ヤンゴンの路上は数十万人もの学生、市民のデモ隊列であふれた[田辺・根元2001『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』角川書店]。
このとき、NAWさんも自身の貯蓄が失われることに抗議してデモに加わった。そして8月8日には、アミョウタミ婦人連(主婦など女性で組織したグループ)の指導者としてデモに参加したという。
タイへ
後にビルマ軍事政権がデモ参加者を次々に逮捕・処刑していることを知り、命の危険を感じたNAWさんは、ブローカーを通して偽造パスポートを入手、1989年ひとり飛行機でタイのバンコクへ逃れた。当時、偽造パスポートを作るのに20.000K~30.000K(300ドル~400ドル)かかったという。カレン人はカレン人であることを理由にパスポートを作ることができない。ブローカーは、たいていヤンゴンのイミグレーションオフィスの前に何人もいるため、交渉して決定する。
 バンコクでは、母の友人であるカチン人(ビルマの少数民族のひとつ)の世話になりながら仕事を探しが、仕事は見つからなかった。タイへ入国して2~3ヶ月が過ぎていた。そこでNAWさんは、メソートから約1時間の国境に住む叔父を頼ることにした。バンコクのABBC大学で学ぶ、国境から来たビルマ人学生やカレン人学生に協力を求め、学生たちと共にメソートへ向かった。(メソートでは、別のビルマ人青年Aさんと出会った。彼はABSDF :All Burma Students’ Democratic Front学生民主戦線のメンバーであった)。(つづく)
カレン人として生きるために (3) -フリー・ビルマ vol.7 -
カレン人として生きるために (2) -フリー・ビルマvol.6-
フリー・ビルマ vol.4 "カレン・キャンプ"
フリー・ビルマ vol.3 "メソート再訪"
フリー・ビルマ vol.2 -メソートの学校-
フリー・ビルマ vol.1 "メソート"
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