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カレン人として生きるために (2) -フリー・ビルマvol.6-

あるカレン難民の物語

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菊池美菜
day
2006-07-15
 

難民キャンプにも入れない

 メソートから1時間の場所にある叔父さんの家には、NAWさんの従兄弟6人と叔父さん叔母さんの8人が生活していた。叔父さんは、KNU(Karen National Union:カレン民主同盟)に参加するエンジニアであり、16歳の従兄弟はKNUの兵士であった。

 NAWさんには、仕事どころか食べるものもなかったため、朝起きて、朝食用の葉っぱを探しに出かけた。叔父さんの家に来て8ヶ月、NAWさんに仕事はなかった。叔父さんの家の近くには、難民キャンプも設置され、1988年の学生運動に参加した学生たちが避難していた。

 しかし当時そのキャンプに滞在するためには、証明書が必要で、その証明書を発行してもらうことは困難であった。軍事政府のスパイが「生命の危険を感じて逃れてきた」と偽って進入することが問題になっていたからである。結局、NAWさんはキャンプに滞在することはできなかった。

 NAWさんは、叔父さん一家に、これ以上迷惑をかけることはできないと思い、バンコクへ戻り仕事を探した。その結果チャオプラヤー川に面したRiver City Hotelや日系企業のSOGOで仕事を見るけることができた。

 NAWさんは、メソートで出会ったABSDFのメンバーである青年Aさんと再会し、2人は助け合って生活をスタートさせた。ビルマ人に対する給料は安く、生活は不安定であったが、2人はバンコクに逃れてきたカレン人やビルマ人学生たちの支援のため、外国に出て働こうと考えた。

日本への出発~カレン人が生きるために~

 NAWさんは、日本へ行くためのVISAとパスポートを入手するために、ヤンゴンで入手したパスポートをブローカーに売った。さらに日本のビザが入ったパスポートを取得するために2,000米ドル(2人分)をブローカーに支払った。この費用を捻出するために、毎日豆や乾燥麺など生きるための最低限の食事で5ヶ月間を過ごし、さらにビルマにいるAさんの家族からも資金協力を得た。英語ができるNAWさんはアメリカ行きも考えたが、アメリカの場合はブローカーへ支払うVISA代がひとり3,000米ドル、とても払える金額ではなかった。

 1991年3月、ご主人Aさんが先に日本へ出発した。入管で止められることはなかった。Aさんは、NAWさんの渡航費を稼ぐために急いで仕事を探したが、東京では仕事を見つけることができず、茨城県にある工場で仕事をすることになった。NAWさんの日本VISAの有効期限がまもなく切れようとしていた5月はじめ、ようやくAさんからの送金があり、日本へ出発することができた。機内では、入管で捕まらないことをただ祈るばかりであった。

 1991年5月、日本がゴールデンウィークの頃、NAWさんは無事に日本へ入国した。(つづく)


カレン人として生きるために (3) -フリー・ビルマ vol.7 -
カレン人として生きるために (1) -フリー・ビルマ vol.5- 
フリー・ビルマ vol.4 "カレン・キャンプ"
フリー・ビルマ vol.3 "メソート再訪"
フリー・ビルマ vol.2 -メソートの学校-
フリー・ビルマ vol.1 "メソート"

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